ワンモア・ピリオド (Pilotな日常 連載50)

ワンモア・ピリオド
連載50 ($Revision: 1.0 $)

◆ ◇ ◇

「独身ですか?」なんて無粋な質問をかわした後、担当の『新人講習会』の初日が始まりました。
 マキさん、つい自分が2年前に座っていた席を見て、タタさんと初めて出会った時のことを思い出します。
 いわくありそうに取り出した Palm にもみなさん無関心そうで、ちょっとがっかりです。それとも、もう珍しくないくらい、世間に認知されているのかな? と考えます。
 早くもいねむりを始めている新人さんを見て、なぜか有川くんを思い出しました。
 実習の時間になると、皆なさんディスプレイに集中し始めます。しかし、やはり難しいこと、知らないことが多いらしく早速質問の手が上がります。一人では対応しきれないことは分かっていましたから、祐次くんにお手伝いを頼んでおきました。二人で机の周りをあちこちと飛び回ります。

 やっと布団から這い出ると、そのままシャワールームへ直行しました。熱いものを頭から浴びていると、だんだん頭が冴えてきます。
 アパートを出たところで、忘れ物をしたのに気付きました。慌ててまた、ドアまで戻って鍵を取り出します。
 部屋へ入ると cradle に、乗っている PalmIIIc *1 を取って胸ポケットに差し込みました。ついで、テーブルの上にあった腕時計もジーンズのポケットにねじ込みます。キッチンに寄って、水を一杯だけ飲むともう一度鍵を掛けて外にでます。
 駅へ向かう道を歩きながら、空を見上げると、もうすでに陽は頭上にありました。
「みんなどうしてるかな」有川くん、つぶやきます。
 そして、腕時計を取り出して腕に巻きつけます。ふとそれに目をやると、おもむろに走り始めました。新しい目覚まし時計を買わないとね、と考えながら駅に向かいます。

 昼食には久しぶりに外に出ました。高原さん、三奈月さんは二人して、のんびりと春の道を歩きます。
「ずいぶん散っちゃったね」桜の木を見て高原さんが云いました。
「そうですね」三奈月さん答えながら、花びらが流れて行く川を見下ろします。
 座敷に上がって、ランチを頼みます。高原さんが正面に掛かっている額縁に目を懲らしていたところ、「有川さん、どうしているんでしょうね」と三奈月さんが云いました。
「元気みたいよ。相変わらずだって、」
 有川くんが会社を辞めてからすでに1ヶ月以上が過ぎています。最初の頃は彼が居なくなったことになかなか実感が無かったのですが、最近はちょっと淋しく思うことがあります。彼の再就職先は、誠司さんの会社ですので、高原さんはよく旦那さんから有川くんのその後のことも聞いているみたいです。
「出勤時間が自由になったから、そうとう気楽に仕事しているみたいだよ」とのこと。
「タタさんもまた行っちゃうし、ツマんないね」高原さんもそう思っているみたいです。そうですね、と相槌を打つと窓の外に目をやりました。
 食後のコーヒーでくつろいでいるとき、聞き馴れた音が響きました。あれ?という顔して高原さん、ジャケットの内ポケットから Palm を取り出します。
「あれ、ヤバい会議入っていたんだ」
「あら」
「ごめん、先に帰る」お金をテーブルの上に置くと、高原さんはダッシュでお店を出ていってしまいました。一人残されてしまった三奈月さんは、時間いっぱいまで、よく晴れた春の風景を眺めながらコーヒーを堪能しました。

 それほど苛ついていたわけではないのですが、煙草の火を乱暴に灰皿に押しつけました。誠司さん、客先のロビーで有川くんを待っています。時計を見るともう約束の時間になろうとしてます。
「まったく」
 大きなウィンドウを通して、有川くんが走ってくるのが見えました。やれやれ、といった具合に誠司さん立ち上がると、彼が来るのを待ちます。ひとしきり言い訳を聞きますが・・
「いいか、会社に遅刻するのは、まあ、いいよ。自分のペースで進めていい環境だからな。ただ、客先とか、打ち合わせとかには絶対遅れるなよ。最低限のルールだ」厳しいことを云われます。
「分かってますよぅ、別に今日だって遅れたわけじゃないでしょう」有川くんは云います。
「あほぅ、もうちょっと余裕をみて来い、こっちがハラハラするだろ。ちゃんと受注しての仕事は、お前、今回からだろう」そういうことです。この数日間は環境に馴れるような作業ばかりでした。新しい会社になってから、お客さまに会う仕事をするのは最初のことです。
「今さら緊張はしないだろうけど、これまでよりはすこし気合い入れてけよ」
「分かってますって、」有川くん、自分の顔を両手ではさみ込むように、パチン、と打ちました。
「行きましょうか」そう云って、ロビーの突き当りに見える、受け付けへと歩き始めます。

 祐次くんは、休憩室でスモーカーな新人さんたちと話をしていました。今はちょっとした休憩時間です。
「山科さんって、まだ2年目なんですか?」
「うん、去年入ったばっかりだよ」
「それにしては、ずいぶん、堂に入っているっていうか・・」
「そう?」
「そうですよ、一年でそんなにできるようになるんですか?」と訊かれます
「それはやっぱり、アレですよね」べつの子が云います。「人によるんですよね」
「いや、おれも全然できる方じゃなかったし、配属されたところが良かったから」
「山科さんの部署を、希望している連中、けっこう多いですよ」
「え、そうなの?」
「前に、すごいクラッカーを見事に撃退したことがある人たちだって、おれたちの間でも噂になってます」
「ああ、そんなこともあったらしいね。話には聞いたことあるけど、でも、侵入されちゃったことの方が問題であってさ」
「田中さんってまだ、いらっしゃるんですか?そのスタッフのリーダーだったって聞いてますけど」
「なんかウチらの間では憧れのヒトなんですよね」
 尾ひれが付いた情報が流れているようですが、実際、その件の詳しい内容を、祐次くんは知ってはいません。でも、なんとなく表面にある問題よりももっと大変なことがあったのを感じています。
 祐次くんとって、タタさんは、技術がすごい、すごくない、ということよりも、人間的な魅力として憧れがあります。
「岡崎さん、PalmIII 持っていましたね」唐突にそう云った一人が、おもむろにポケットから取り出した物を組み立て始めます。
「おお、これは Palm Portable Keyboard *2 だね」やはり好きな人はいるみたいです。

 桜を見ていました。満開を過ぎた花びらたちが足元に溜っています。その上をゆっくりと、また、歩きはじめました。今日はずっと打ち合わせでした、ほとんどオフィスに戻ることもなく、煙草の匂いのこもった部屋にカンヅメだったので、外の空気を美味しく思います。陽は傾むいてはいるものの、まだその全ては空にありました。
 たまに下りてくる桜の花びらを手で受けとりながら、そして、待ちながら川沿いの小道を進みます。来週になれば、また、アメリカでの仕事が待っています。そのことに少しだけ思考を向けると、今日の会議の内容も思い出してしまいます。
 後ろからの声に振り向くと彼女でした。手を上げると、その場で立ち止まって待ちます。駆け足気味に三奈月さんが近付いてきます。
「ずいぶん長い打ち合わせでしたね」追いついたところで、彼女は私を見上げて云いました。
「このところ、ずっとこんな状態です。報告会ですから仕方ないのですけど」
「報告会ってまだ終ってないのに」
「そうですね、延び延びになっているプロジェクトですから、中間発表みたいなものです」
 道を二人並んで歩き始めました。
「タタさんの仕事分は終ったんですよね。なのにまだ、離してくれないんですか?」
「そうですね、もしかしたら終らせてしまったのが問題だったのかもしれないです」良い意味では腕を買われたのかもしれないですが、ちょっと複雑な気分です。
「それで、どうやら、正式にあちらで仕事をしなければいけなくなりそうなんです」
 そう云うと、すこしだけ前を歩いていた彼女が立ち止まります。私も足を止めました。
「それは、向うで仕事を本格的にするということですか、アメリカで暮らして仕事をするっていう」振り向かないで三奈月さん云います。最後の方は呟くような言葉でした。
「はい」
「いつ?」
「半年くらい先からですね。また、一度報告に戻ってから、それから、しばらくはあちらで暮らすことになりそうです」
「そうなんですか」
「プロジェクトの最後までつき合わされそうですから、1年か、2年かかるのか分からない状態です」
「ひとりで、ですか?」
「そこは交渉しだいなのですけど」
「交渉?」やっと彼女は振り向いてくれました。「なにを交渉するんですか」どうやら、アサインに関しての、会社との交渉と思っているみたいです。

「いえ、あなたとの交渉です」
「?」三奈月さん首を傾げます。
「一緒に行ってくれませんか?」
 そう云うと傾むけていた顔が少しずつ戻ります。
「はい」はっきりと彼女は答えてくれました。
 なにかくすぐったい様な、しあわせな気持ちが私の中に拡がります。

◇ ◇ ◆


*1: PalmIIIc、PalmVx ともに日本語版が出ましたね。
*2: Palm, Inc. の純正キーボードです。屏風のように折畳みができます。目の前で取り出されたら、相当インパクトがあるはずです。

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